決めつけ
2019-06-25
エッセイ
人がしないような辛い経験は、経験した人にしかわかりません。
そんな経験はしない方がいいに決まっていますが、もし、そんな経験をしてしまったら、なかったことには出来ないでしょう。
なかったことには出来ませんが、経験したから、その人の人生が、より不幸になるとは限りません。
経験したからこそ、わかる幸せがあるからです。
幸せは自分で見つけるもので、誰かに見つけてもらうものではないような気がします。
相手が不幸そうだと決めつけるのも、幸せそうだと決めつけるのも、見ている人の想像でしかないのです。
そうですよね・・・・・頭ではわかっていても、なかなか前向きになれず、足踏みをしています・・・・でも、ありがとうございました。コメントを頂けただけでも嬉しかったです。つまらない愚痴を聞いていただいてすみませんでした・・・・・
匿名でお願いしますさんへ
僕もいつも足踏みしているので、足踏みが悪いことだとは思っていません。
東田直樹
恐らく今の東田さんには、想像すらできないのでしょう。支援者側の世界では、人が人を支えていく輪の重なりで成り立っています。一人では、精神的にも肉体的にも障害者を支えることはできないからです。
無論、障害者と言っても様々です。ただ今の東田さんは、分からないからこそ自分の感情の赴くままに支援者の善意をも傷つけてしまう障害者なのでしょう。仕方のないことでしょう。
匿名希望さんへ
今の社会は、障害者だけでなく、いろいろな人が支援を望んでいます。
福祉の世界に限らず社会の抜本的な改革が急務になることは間違いありません。
支援者側、障害者側という捉え方にも変化が訪れる日が来るかもしれません。
東田直樹
こんばんは。二十八歳男性です。私は今でも忘れられないつらい経験があります。中学一年の時の出来事です。同級生の子との間に起きたトラブルでした。あまり、いい言い方ではありませんが、不良少年と言いましょうか?その子に危うくお金をだまし取られそうになった事がありました。不安になった私は母に打ち明けたところ、母が驚愕し、すんでのところで被害を免れました。事の重大さに気づいた母が私の担任に相談してわかった事ですが、その子は他にも窃盗(主に置き引き)も繰り返しており、職員室では有名だったそうです。
被害を免れたとはいえ、私の気持ちは晴れる事はありませんでした。何故、こんなひどい事をするのだろうか?どうして、自分の事を一人の人間として尊厳を大切にしてくれなかったのか?そんな事ばかり考えると、辛くて、悔しくて、許せないと感じた事もありました。今は昔ほどではありませんが、まだ引きづっています。イライラするたびにその子の事ばかりを想像してしまいます。それ以上に自分の欲求や快楽を満たすためなら反社会的な事をする。人を傷つけることも厭わないという心理に恐怖さえ、抱いた事もあります。これからもあの子への恨みと恐怖心は完全には消えそうもありません。
私にも経験したからと言って不幸になるわけではないといえる日がくるのでしょうか?長々と愚痴っぽくなってすみませんでした・・・・・・
匿名でお願いしますさんへ
恨みと恐怖心は別のものです。恨みは相手を嫌う感情であり、恐怖は怖がる気持ちです。
そんなにひどいことをされたら誰でも怒るでしょう。
その人を嫌いになってもおかしくありません。
怖いと思うのも当然ですが、もう終わったことです。
また、同じ目に合わないとは限りませんが、もしあったら警察に相談して下さい。
あなたにも、きっと幸せは訪れると思います。
東田直樹
もう一つ、東田さんを取り巻く偽善に満ちたメディアが嫌いです。メディアにとっては、東田さんは奇跡の人であり、聖人の象徴なのでしょうが、同じ障害を持っていても十人十色、奇跡を期待される当事者にとっては、迷惑でしかないと思えます。恐らく一生分かり合えることはしないでしょう。
同感です。さらに踏み込んで言うならば、支援者を支援する体制作りの強化こそが、必要不可欠でしょう。私には、障害のある当事者に対してよりも、むしろ障害者を取り囲む健常者の社会に苦しんでいる支援者の方が多いように見えます。例えば、東田さんの書籍から救いを求める読者が少なからず存在するのは、そういった社会背景が伺えるように思うのです。
匿名希望さんへ
支援者を支援した後には、
支援者を支援する人を支援して・・・という風に、
きりがないようにも思えます。
東田直樹
人がしないような辛い経験、不幸だという定義は、人によって異なるので一概にはなんともと言ったところでしょうか。
例えばになりますが、障害者は健常者より辛いだろう、不幸だろうと思う人は、この世の中では少なからずいるでしょう。障害者には優しくしなさいとか、話を聞いて理解してあげなさいという考えが浸透しているのは、そういった背景があるように思います。確かに、生活面での困難さは見てよく分かります。
けれども、健常者の社会は、時として障害者の社会よりも不自由で辛いように思えます。その困難さは目には見えないので、反対に、障害者が健常者に優しくしなさいとか、話を聞いて理解してあげなさいとはならないのでしょう。
何が辛い、何が不幸かは、健常者、障害者に隔たりはなく、結局のところその人にしか分かりません。けれども、あの人は〇〇だから、〇〇と言ったからと決めつけるのではなく、その人が何を伝えようとしているのか、心の声に耳をすませる、想像してみることもが、時に必要なのかもしれません。
それから、自分の気持ちが望むように伝わるとは限らない。むしろ伝わらないことの方が多くのではないでしょうか。それを求めるのは、子供の甘えだと思うのです。
匿名希望さんへ
その通りですね。これからの社会は「障害者」というくくりはなくなり、「支援が必要でない人」が「支援が必要な人」を援助するという世の中になっていくのではないでしょうか。
東田直樹
そうですね。
幸せかどうかなんて見ただけではわからないと思います。
そして、仰る通り幸せは自分で見つけるものだと思います。
小さな幸せを見つけながら日々過ごせたらいいですね。
hiroさんへ
幸せというのは、自分の心が決めるものだと思っています。
東田直樹
初めてコメントします。私は発達障害(自閉症スペクトラム)です。知的障害はありませんが、自閉症特有の特性をいくつか持っています。東田さんの著書も読ませてもらっています。自分も幸せについて考えることがあります。人から見れば幸せそうな人も本当に幸せかどうかは分かりませんし、不幸そうに見える人も本当に不幸かどうかは分からないと自分も思います。幸せかどうかはその人が決めることと思います。そして様々な経験をして人はまた一つ成長するのだと日々生活していて思います。
bariさんへ
僕も自分の幸せについてよく考えます。考えるという作業が、幸せの一歩だと思います。
東田直樹
身を削るような辛い経験をしたからこそ、人間性が醸成されているような気がします。思いやりを持てる人間になっている気がします。
幸福な経験も、辛い経験も、人生には必要な要素なのですね。甘さとほろ苦さのスパイスのようです。
さちほさんへ
スパイスがあるからこそ、いい味が出せるのでしょう。
東田直樹
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